野間易通「実録・レイシストをしばき隊」(河出書房新社)-2

野間易通「実録・レイシストをしばき隊」(河出書房新社)-1の続き

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 後半では、広義のしばき隊が行うアンティレイシズムの論理と倫理が語られる。キーワードは「公正としての正義」「正義はだいたいでいい」「どっちもどっち論はだめ」。これらが出てくるのは、しばき隊の活動に対して、「正義は人それぞれ」で多数の正義がある(だから在特会などのレイシストにも正義があるので尊重しろ)といういちゃもんがあるため。実際にレイシストがやっているのは、「人の心を凍らせる」「人の心を殺す」ヘイトスピーチであり、「お散歩」と称するマイノリティへの威嚇や脅迫や業務妨害などであり、人権侵害や犯罪である。にもかかわらず、人それぞれだけの正義がある、(しばき隊も在特会も罵倒の応酬という点では)どっちもどっちという批判(いちゃもん)がスクラムで押し寄せる。それに一応反論するために、著者はキーワードを提示する。これは、人それぞれやどっちもどっちの極端な相対主義に対抗し、カウンターの行動に根拠をもたらすため。
 自分はこのキーワードに賛同。少し違ったことを考えていたので、そこを加えて注釈をいれてみたい。
 著者は「正義という言葉から連想するのが月光仮面仮面ライダーでしかない(P340)」という(俺はさらに「水戸黄門」と「遠山の金さん」を追加したい)。ここにあげた人たちは、神や仏のような、あるいは単純な悪に対抗する善を正義にする。ここはアメリカと大きな違いで、アメリカには「真昼の決闘」「12人の怒れる男」「スミス都へ行く」のように正義を実行するまでのプロセスが描かれる。これらの映画では、他人と討論し(ときに殴り合いもある)、小さく実行して検証し、再度まとめることが行われる。そのときに何が正義であるかはほぼ自明であって、正義のための行動をとるかどうかが、不正を見逃すか/抗議するかが問われる。
 この違いになるのは、本書の著者が「正義」と「善行」をわけていることにあると思う。さまざまな集団やグループが併存している社会では「公正としての正義」と法が優先されて、同質な集団やグループの中、すなわち共同体では善行が優先される。社会はふつう使われるのとは違い意味を持たせている。すなわち、

マルクスは『社会的』という言葉を、相互に異なった共同体で無関係に生きている人々が(そうと知らずに)貨幣による交換によって関係づけられてしまうようなことを指すときに使います(P91)(自由・平等・友愛@戦前の思考by柄谷行人)」

 共同体と共同体の間で起こるのが交通(交換とか会話とか交渉とか)。相互に異なった共同体ではルールや規範や徳目が異なるから、交通を成立するのに新たな取り決めが必要になる。それが倫理や正義。一方、同質で同一性を優先する共同体では、ルールや規範は共同体維持や保存に沿うように作られる。それが道徳や善行。
 例えばこんな感じか。「親を敬え」は共同体の道徳になる。どのように親を敬うかは伝統や規範で制限がある。でも、片親や孤児、DVやネグレクトにさらされる子、産みと育ての異なる子など、「親を敬う」行為が困難な状況にある人も、道徳は強く縛る。一方、「社会」的な「公正としての正義」では「親を敬う」行為の内容はそれほど問題にしない。しかし、片親や孤児には育英の支援を、DVやネグレクトにさらされる子にはシェルターを用意するなどして、事情の異なる人が公正な扱いを受けるような政策や行動をとる。ここが善行や道徳と正義の違い。
 レイシスト在特会のような組織や集団を作り語り、役職を作って、会員や仲間に集団の一員としての帰属意識を求める。なので、彼らは道徳や善行を行うことが期待される。それが協調性や全員参加等として表れる。リーダーの命令で自発的にヘイトスピーチを行うのもその一環。彼らはその行動が共同体の徳や善を表現している。でも、カウンターはレイシストの行動の結果としての不正に反対し、抗議する。ときには彼らのヘイトクライムを妨害する。そこでは共同体である在特会の徳や善を行わさせない。彼らからすれば、カウンター(広義のしばき隊)は悪になるのだ。カウンターは悪であることを怖れない。社会にいるカウンターにとって「公正としての正義」を実現することがただしいから。
 この公正には複数の異なる立場が生まれることはない。社会の成員が交通することで、だいたいの正義が構成され、共有され、実践され、更新されている。社会の成員がおおよそ一致できる徳目として公正と正義は構成されるのだ。「人を殺すな」「他人のものを盗むな」「他人に嘘をつくな」などから出発した公正としての正義はだんだんと形を明確にしている。それが「人権の尊重」である(いずれアマルティア・センの「人間の安全保障」も含まれるだろう)。そこはどの社会でも共有される基本的な「公正としての正義」。なので、「正義は人それぞれ」にはならない。
 カウンター(広義のしばき隊)は組織やグループをつくりたがらない。きわめてゆるいグループを一時的につくりはするが、抗議の手法やノウハウが公開され共有されると、そのグループも解消して、個人の行動になっていく。その個人は複数の共同体(地域や職域団体など)にコミットして、協働したり、別の共同体との仲介を果たしたりしている。同質な集団の善行よりもさまざまな集団やグループが併存する社会の「正義」の実現をしようとするとき、組織や集団の「善行」はあしかせになる。共同体の同一化にもあらがい、「社会」にあろうとするカウンターは「単独者@柄谷行人」なのだと思う。そのような「社会」は共同体の「善悪の彼岸@ニーチェ」にあたる。
(といってカウンターが常に単独者であるわけではなく、普段は家庭、地域、勤め先などの共同体に属していて、そこで徳や善を行う。ただ、レイシストという不正義で悪をなすものには、正義を実現しようとする単独者になる。カウンターが終わると、共同体の成員に戻る。)