小人プロレス(ミゼットプロレス)は人権団体がつぶした?  #ネトウヨデマ対抗テンプレ

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「小人プロレス(ミゼットプロレス)は人権団体がつぶした」は定期的にネットにでてきます。たとえば、画像のツイートが3600RTになるくらい。

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日本のミゼットプロレスの歴史はwikiにまとまっていますが、ほかの資料や個人的な記憶を使って補足します。

ja.wikipedia.org

 

日本のミゼットプロレスの始まりは1960年代初頭

ミゼットプロレスは、男子プロレス、女子プロレスとは異なるルートで日本に入ってきて、興行に加わりました。

1960年(昭和35年)08月26日に公開された「小人のプロレス」のニュース映画。

www.chunichieigasha.co.jp

 

www.youtube.com

「記録」面ではほとんど表に出てこない「幻の十年」。だが、61年、62年、63年と三年連続で来日したアメリカのミゼットレスラーたちの前座を女子プロレスラーが務めたという話がある。興行を打ったのは三重県松坂在住のプロモーター玉井芳雄氏。
松永(全日本女子プロレス社長) ええ、アメリカのミゼットとやったことはあります。(略)で、日本プロレスに話をもっていったんだけど、力(道山)さんとエンコウ(遠藤幸吉)はうまくいってなかったから力さんあまりいい顔しなくてね。でこっちに話がきたわけ。
小畑(千代:女子プロレスラー) 最初松永さんのところ話がいったんだけど、あとからはウチ(東洋女子プロレス)。もちろん玉井さんのとこ。メインを張ったのは私たちでミゼットが前座よ。
小泉悦次「女子プロレス 幻の十年」別冊現代思想「プロレス」2002年2月臨時増刊P259-260

経緯は不明ですが、これらの興行のあと日本にミゼットレスラーが誕生しました。

 1967年4月23日、いくつかの小団体を糾合し、新たに「日本女子プロレス」が結成された。会長は万年東一。女子選手は巴ユキ子ら10人、ミゼット選手ダイナマイト・キングら4人。29日対等体育館で発足後初の試合をする。(略)このシリーズが終わると「日本女子プロレス」は分裂した。松永兄弟、ほとんどの女子レスラー、ミゼットレスラー全員が離脱し「全日本女子プロレス」を旗揚げした。
松永 選手たちが中村守恵(ブッキング担当)と合わないわけ。で、出て全女を作ったんです。それからですよ。ストリップ劇場での興行を止めたのは。
日本女子プロレス」は68年11月11日より、木曜日午後7時30分から30分間、東京12チャンネル(現テレビ東京)のレギュラー枠を得た。(略)幸いにも中継のほうは、初回から20パーセントを超える視聴率を記録した。
小泉悦次「女子プロレス 幻の十年」別冊現代思想「プロレス」2002年2月臨時増刊P261-262

  このような誕生の経緯もあって、日本では全日本女子プロレスだけがミゼットプロレスの興行を行うようになりました。1990年代の一時期にFMWがメキシコのミゼットレスラーを招聘して試合を行ったことがあります。

 

ワッシュ @washburn1975 さんの日本プロレス史講義(1)

創成期から発展期にかけて。

コレ(小人プロレス)実は日本芸能史とも深くリンクするテーマなんですよ。アメリカやメキシコでは、小人レスラーは大型レスラーと組むマスコットキャラ的な扱いが多く、小人だけで戦う日本のほうが特異なんです。(続く
昭和29年、日本にプロレスを輸入した力道山は、自身が馴染み深い角界のしきたりを踏襲した「プロレス界」という世界を創造するにあたり、アメリカのそれよりシリアスな雰囲気を出すためか、小人と女子を排除したのである。(続く
かくして大ブームの力道山プロレスから排除された女子・小人プロレスは、ストリップ劇場などで開催される、ボードビリアンの演目として発達していったのである。(続
かくして、大型男子と交わらない、もちろん女子と戦うこともない、小人だけで戦う日本式小人プロレスが完成する。

https://twitter.com/washburn1975/status/1240598697806688257 から

小人プロレス衰退の歴史は日本芸能史と深くリンクしていて、力道山が日本にプロレスを輸入したとき、欧米では小人や女子も一緒の興行に出ていたのを、角界のしきたりに合わせて大型男子だけにしたので、小人と女子のプロレスは別ルートで発展したのである。(続く
日本における女子プロレスの歴史は、力道山の男子プロレスより早く、昭和23年にボードビリアンのパン猪狩・ショパン猪狩兄弟が進駐軍向けのショーとして始めたといわれる。相手のガーターを脱がせたほうが勝ち、というお色気要素の強いショーだったという。(続く
(当時の日本には「柔拳」という柔道家とボクサーが戦う格闘ショーがあり、兄は柔道、弟はボクシングの経験がある猪狩兄弟はこれに精通していたようです。)
この出自もあり、女子プロレス・小人プロレスはストリップ劇場などで開催される、ボードビリアンによるショーのひとつとして発展していく。その後スポーツ的な要素が強まっていくが、原点はそもそも力道山の村社会であるプロレス業界とは違っていたのである。(続く

https://twitter.com/washburn1975/status/1206035116264312832 から

しかし、コミカルな要素を持ちながらもそのファイトは身体への負担が大きすぎ、レスラーが次々に引退していった。その状況では後進も育たず、先細りになっていったわけです。
念のために追記しておくけど、アメリカの小人レスラーも、もちろん小人同士の試合をやってます。けど向こうでは大型レスラーとも絡むから、小人の頭数が少なくてもバラエティに富んだカードが組めたけど、日本では小人は小人だけでやってたから、先細りにならざるを得なかった、ということね。

https://twitter.com/washburn1975/status/1240569007175913472 から

アンドレはそういう露出が多いレスラーでしたし、おそらく最も有名な小人レスラーのひとりであろうスカイ・ロー・ローも、巨人レスラーのスカイ・ハイ・リーをもじったリングネームでした。巨人と小人の組み合わせは、21世紀のWWEでもグレート・カリとホーンスワグルの絡みがありましたね。

https://twitter.com/washburn1975/status/1240598697806688257

wwe.jami-ru.com

テレビ中継はあったが次第に露出は減少

興行を開始した全日本女子プロレスにはテレビ局がついて不定期に放送されました。マッハ文朱ビューティ・ペアなどの人気選手が出ると、定期放送になることもありました。

ja.wikipedia.org

1970年代のミゼットプロレス人気の証言。マッハ文朱ビューティペア売り出しの裏話が面白いです。

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www.cdjournal.com


当初、女子プロレスの観客は大人の男性でした。ミゼットプロレスは人気がありました。彼らを目当てに来る観客がいました。
1970年代半ばにビューティ・ペアの人気が出ると、若者が来るようになります。彼らはミゼットプロレスを受け入れませんでした。

 

2020/5/19にgatpepsiさんからブックマークで下記のご指摘をいただきました。ありがとうございます。

クラッシュの時から女性客が増えた?大嘘だね。ごく初期を除いて女子プロは女性客が主流だった。ビューティーペアの頃を知らんのか。歴史を捏造するなよ

 

1974年の女子プロレスの試合

www.youtube.com

www.youtube.com

ビューティペアの試合

www.youtube.com


このころテレビではミゼットプロレスが放送されなくなっていました。(以下私見。1970年代からテレビ局が自主規制したと思います。低身長症の芸能人がテレビから消えたのと軌を一にしています。)
象徴的な事件が起こります。

 

「8時だヨ!全員集合」にミゼットレスラーが出演。視聴者の抗議で降板。

1980年代頭にドリフターズ「8時だヨ!全員集合」にミゼットレスラー「ミスター・ポーン」が出演します。

『8時だヨ!全員集合』出演は、小人プロレスの存亡を賭けたチャレンジだった。「市民権」獲得の闘争でもあった。
会場入りしたミスター・ポーンは、「何歩で駆け抜けるか」を計算し、リハーサルを繰り返した。ケガをしないぎりぎりの速度を探った。
客席は爆発し、茶の間の小学生は驚喜したが、テレビ局には抗議の投書が殺到した。

realhotsports.com

別の証言。

僕がドキュメントを撮った9年前から、もっともっと前からそうだった。当時、ドリフターズの全員集合!という番組にレギュラーで出演しないかという申し出があった。坂本さんや大五朗さんも現役の頃だ。でも試合は既にテレビからはオミットされていたし、小人たちはこのチャンスに顔を売るんだと張りきってコントの練習にいそしんだ。

1クールの約束は数週で反故にされた。「申し訳ないけど視聴者からの抗議が凄いんだ」とプロデューサーは呆然とする彼らに説明した。どうしてあんな可哀想な人たちをテレビで晒しものにするんだという抗議が殺到したという。

www.cokes.jp

ミスター・ポーンの登場はなくなりました。

  

※ ミゼットレスラーのテレビ番組の出演に抗議したのは個人です。テレビの露出を止めたのはテレビ局です。この一連の動きで「人権団体」は登場していません。
個人の「抗議」内容も、「ミゼットレスラーをテレビに映すな」でした。「ミゼットプロレスは差別的」という抗議ではありません。

(余談。ビューティペアが人気だったころ、「8時だヨ!全員集合」のプロレスコントに、現役女子プロレスラーが登場したことがあります。国際プロレス女子部の選手だったという記事を読んだことがあります。いまならセクハラ相当のコントがありましたが、こちらはしばらく続いていました。自分の記憶ではプロレスコントをやめたあと、相撲部屋コントになりました。)
(さらに余談。「全員集合」の当事者に証言がないかと、いかりや長介「だめだこりゃ」新潮文庫居作昌果「8時だよ!全員集合伝説」双葉文庫を確認したのですが、のっていませんでした。)

 

 

テレビにレギュラー出演することはできなくなりましたが、興行で試合は組まれていました。1983年の全日本女子プロレスの興行ポスター 。4人のミゼットレスラーが映っています。

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高階由利子の引退は直前に決まった?! | 全日本女子プロレス 黄金伝説 から

 

 

クラッシュギャルズの人気とミゼットプロレスの不遇

ミゼットプロレスに大きな転機が訪れます。1984年秋以降のクラッシュギャルズの人気沸騰です。

www.youtube.com
それまで女子プロレスの観客のほとんどは男性でした。クラッシュギャルズがテレビに登場すると人気がでて、10代の女性が会場に詰め掛けます。最盛期には観客の90%以上が若い女性でした。彼女らはミゼットプロレスに関心を持ちませんでした。試合が始まると売店やトイレにいってしまいます。
そのため、全日本女子プロレスの経営者はミゼットプロレスの試合を減らします。
(余談。当時は一回の地方興行で1000万円以上の利益が出ていたといいます。売上はそこらの段ボールにぎゅうぎゅうに詰めて、10箱以上になったといいます。車に積んで事務所やホテルにもどると、数箱なくなっていたということがときにあったそうです。松永会長は「どうってことねえよ」と豪快に笑い飛ばしていた、という傑作な話が残っています。それほど儲かるので、観客がつまらないとみなした試合をなくしたのでした。)
クラッシュギャルズの人気は二人が引退する1990年まで続きます。このころまでにベテラン選手は引退し、現役ミゼットレスラーは二人だけになりました。

 

 

ミゼットレスラーは、低身長症がスカウトされて選手になった

女子プロレスでは入門希望者を採用したりオーディションで選抜したりしてきましたが、ミゼットレスラーはプロレス団体の関係者が個別にスカウトしていました。昭和30-40年代、低身長症は家業を継ぐか職人になるかくらいしか職業の選択肢がありませんでした。プロレスラーになる話が魅力的に思える人たちがいました。一時期全日本女子プロレスは10名前後の選手を抱えていました。しかしプロレスはリスクが高い職業でした。

「男子」プロレスに対し激しい対抗意識を抱いて闘った完全無欠のベビーフェイス、プリティ・アトムは、目が見えなくなってリングを降りた。
アトムを反則攻撃でいたぶり続けたミスター・ポーンは、試合中に突然、足が動かなくなり、そのまま車椅子の生活に入った。
見た目のインパクトが強烈な名バイプレイヤー、天草海坊主は、リングの設営中に背骨を痛め、それが原因で走れなくなった。

【第21回】不世出の天才ミゼット・レスラー!小さな巨人!リトル・フランキー|リアルホットスポーツ


1990年代になると、選手は二人にまで減ります。身体障がいなどがでて引退する選手が出る一方で、新たな選手がはいらなくなったためです。1990年代になると全日本女子プロレスはミゼットレスラーのスカウト活動を止めます。

松永 ミゼットもね。医学的に克服できちゃったのよ。三歳までに牛の脳下垂体を植えつければ直るんですよ。ウチにいる三人(当時の現役ミゼットレスラーだったリトル・フランキー、角掛留造、ブッダマン)については一生面倒は見るつもりですけどね。ブッダマンね。時々試合には出るけど営業の仕事もさせてます。コースを組む打ち合わせですけど。
小泉悦次「女子プロレス 幻の十年」別冊現代思想「プロレス」2002年2月臨時増刊P264

 

【重要】2020/5/21にsegawashinさんからブックマークで以下の指摘をいただきました。その通りだと思います。ありがとうございます。

いわゆる人権派を腐したいがためにミゼットを持ち出してくるような手合いには十分なカウンターだと思われるが、「医学的に治る」として引用されている松永氏の発言はかなり間違っているので、念のため指摘。

<参考 2020/5/21追加> 医療機関による低身長症の説明と治療法

jspe.umin.jp

www.j-endo.jp

www.tokushukai.or.jp

発言者は不明ですが、こういう証言も。

「小人プロレスをなくしたくはないけど、今の三人のうち二人がダメになったら、多分、潰れると思う。新人は来ない。街を歩いていても小人の姿を見かけなくなった。今は子どものときにわかったら、ある程度、治療できるようになっているみたいですね」

【第21回】不世出の天才ミゼット・レスラー!小さな巨人!リトル・フランキー|リアルホットスポーツ

 

ミゼットレスラーが減ったのは医療体制と観客のニーズの変化により興行団体が選手集めを止めたためです。「人権団体」からの抗議に応じたためではありません。
(ブログ主は1990年代の週刊プロレスを継続してほぼ全冊読んできましたが、全女関係者のインタビューや記事で「抗議を受けた」という話は読んだことがありません。)

 

成長ホルモンの補充ですべての低身長が改善するわけでもないし、おそらくミゼットレスラーの原因になっている低身長症には効きにくい(効かないわけではない)だろうと思われるので、「医学的に克服されたからミゼットレスラーがいなくなった」説はたまにネットでも目にするけど誤りじゃないだろうか。

https://twitter.com/segawashin/status/1263316318603771905

(ミゼットレスラーがいなくなったのは、全日本女子プロレスがスカウト活動をやめたのが理由だと思います。スカウトしようにも治療が進んでめったにいない、はいりたがらない、女子プロレスで十分な儲けが出ているのでスカウトするだけのメリットがないなどが止めることにした背景にあるでしょう。そういう内容の松永会長(当時)のインタビューを覚えています。スカウト活動をやめても、ブッダマンやプリティ太田選手のような希望者がいれば、活躍の場を提供していました。いっぽうで、現役のミゼットレスラーは生涯面倒を見るという会長や会社の意思は固かったのでした。)

 

ワッシュ @washburn1975 さんの日本プロレス史講義(2)

昭和40-50年代の女子中高生に支えられた女子プロレスブームの時代。

 長らくお色気ショー的に見られてきて、客層も男性が中心だった女子プロレスだが、1973年にマッハ文朱がデビューし、アイドル歌手ブームの中で芸能界志望者が女子プロレスに参入する先駆けとなる。そして1976年、ジャッキー佐藤マキ上田ビューティ・ペアが爆発的ブームを起こす。(続く
ビューティ・ペアが女子中高生を中心とするファンの支持を得たことで、女子プロレスの客層はガラリと変わり、おじさんたちが駆逐され女子が中心となる。このため、ストリップ劇場のコントにルーツをもつ小人プロレスは、会場でのウケが顕著に悪くなったのである。(続く
1985年には長与千種ライオネス飛鳥クラッシュ・ギャルズが爆発的人気となり、会場は黄色い声援でいっぱいとなる。女子レスラー志望者も増加し、また長与が男子の技を取り入れたこともあって、女子プロレスのレベルは高くなっていった。(続く
一方でおじさん臭い小人プロレスはどんどん窓際に追いやられ、また名人ミスター・ポーンや天才プリティ・アトムらが身体の故障で引退していったこともあり、選手層はますます薄くなっていったのである。(続く

https://twitter.com/washburn1975/status/1206037731287031808

クラッシュギャルズ全盛期の試合。観客の雰囲気がわかります。

www.youtube.com

 

1984年の石井聰亙監督「逆噴射家族」から。俳優・工藤夕貴が演じる「小林エリカ」はクラッシュギャルズにあこがれる中学生です。

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日本女子プロレスでミゼットプロレスの試合がなくなったことはない

試合がほとんど組まれなくなった二人のミゼットレスラー。興行があるときは裏方になったり営業になったりします。ときどき着ぐるみの「中の人」になるアルバイトがはいりもしました。試合が組まれなくても、仕事がなくなったわけではありません。

全女関係者によるミゼットレスラー支援の様子。1989-90年ころと思います。

笹崎 そうですね。関東近郊の興行のときは、その日のうちに目黒に戻るんですけど。ビルの屋上にはミゼットプロレスの人たちが住んでる部屋があったんですよ。スーパーハウスみたいなプレハブがあって、そこにはガスや電気も繋がっていて生活ができるんです。その頃はリトル・フランキーさんや角掛留造さんの2人が住んでいて。自分らが巡業から帰ってきたら近くのスーパーで何か買って、レフェリーの村山(大値)さんやミゼットたちと晩酌してまして。

ch.nicovideo.jp

(「目黒」は全日本女子プロレスの自社ビルオフィス。レストラン、カラオケ店、女子レスラー合宿所がありました。)

 

 

全女の関係者による1990年代のミゼットプロレスの思い出。

マッハさんの時代からクラッシュの時代まで激戦の続く興行の中のスパイスとして、また全女が低迷期だったときの原動力として、どの選手もミゼットの人たちには頭が上がらないという意識はあったそうです。

だが当時はやっぱり規制に厳しい時代があってテレビ放送はされず、大会においても出番は地方大会に限られ、後楽園ホールより上の大会には出番がないことが長らくありました。  

 

1992年9月30日の深夜枠で「ミゼットプロレス伝説」という今回の太田さんのようにミゼットを取り上げた特番がフジテレビで一時間半の時間で放送されました。

深夜にも関わらずけっこうな視聴率があったそうで、この反響からミゼットプロレスが全女のどの大会でも使われるようになり、横浜アリーナや武道館、両国、東京ドームでも試合が組まれたことがあります。
この全女での活躍からミゼットプロレスが一般的なプロレスファンに認知され、市民権を得たと言ってもいいでしょう。

 ameblo.jp

  

ひとり選手が応募して3人になりました。

 
クラッシュギャルズが引退すると全日本女子プロレスの観客は激減します。残った女子レスラーが頑張ります。その中で行われたブル中野vsアジャ・コングの金網デスマッチがプロレス雑誌で男性プロレスファンの目に留まります(ブル様の金網最上段からの拝みつきギロチンドロップ! それを受けるアジャ!)。二人の試合を目当てに来た男性ファンは北斗晶豊田真奈美井上京子の天才を発見します。そして女子プロレスを見る男性ファンが開拓され、90年代の女子プロレスブームになるのは別の話。)

www.youtube.com

 

 

ワッシュ @washburn1975 さんの日本プロレス史講義(3)

ポストクラッシュギャルズ時代である1990年代の「女子プロレスブーム」と全女の倒産。21世紀の概況。

 

しかし、会場の客層がまた変わり、女子中高生が減少したことで入門希望者も減っていく。また、それまであった25歳定年制が撤廃され、選手が高齢化し、上がつかえて新人が育たないという悪循環も発生。大ブームとなった女子プロレスだが、ブームはマニアが潰す、の言葉どおりとなった。(続く
バブル崩壊のため投資に失敗し、巨額の負債を抱えた全日本女子プロレスは倒産。男子プロレスの業界と同様、小資本による個人商店が乱立する時代へと突入する。小人プロレスも、最後の名人リトル・フランキーの死去により、かつての技術はほとんど失伝したのが現状である。(続く
現在の女子プロレスは、地下アイドル業界によく似た業態となっており、プロレスだけで生活できる選手は少ない(これは男子も同じだが)。「小人レスラーは仕事を奪われた」という言説があるが、そもそもプロレスが専業の仕事として成立しない時代となったのである。(終わり

https://twitter.com/washburn1975/status/1206040266206932992

 

当時のミゼットプロレスの映像

テレビ局ではミゼットプロレスを放送しませんでした。
これは2002年に書かれたと思われる文章から。おそらくその10年前の思い出です。

現役は今も二人いる。リトル・フランキーと角掛留蔵。年齢は僕とほぼ同じだ。でも試合はほとんど組まれていない。地方の会場の場合は根強いファンがいて時おりはリングに上がる。でもテレビの中継があるときには、二人の試合のときにだけ撮影用の照明が落とされる。

www.cokes.jp

かわりにVHSで販売されました。以下は「ビデオ安売王」に収録されたもの。

メキシコより最強のミゼット軍団飛来!迎え撃つリトル・フランキー率いる日本勢!

平成7(西暦1995)年6月6日 市原臨海体育館 FMW公認 限定有刺鉄線催涙ガス噴霧 爆裂6人タッグデスマッチ(時間無制限一本勝負)

www.youtube.com

www.youtube.com

真の王者は二人はいらない!リトル・フランキー世界統一への大一番!

平成7(西暦1995)年6月5日 後楽園ホール プロレスリング世界ミゼット級選手権(時間無制限一本勝負)
WWWA世界王者 リトル・フランキー(日本代表) vs. CMLL世界王者 エナニート・フィリ・エストレージャ(メキシコ代表)
他の登場選手・元選手 角掛留造/ミスター・ブッタマン/ゲレリート・マヤ/ゲレリート・デル・フトゥーロ/元ダイナマイト・キング/元ミスター・ポン

www.youtube.com

 

深夜テレビではまれにミゼットプロレスが放映されることがありました。1990年ころ、FMWでもメキシコのミゼットレスラーを呼んで、ミックスドマッチを組んでいました。TBSのFMW特集番組から。
FMWのすべて」1991.9.22川崎球場
f:id:odd_hatch:20200520134054p:plain(「シート」「チキート」がミゼットレスラー。)

ウルトラマン・シートがコーナー最上段からボディアタック

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勝利したウルトラマン・シートとアミーゴ・ウルトラ。

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あいにくどちらも極端な選手不足で話題になることはほとんどありませんでした。(週刊プロレスのある記者がミゼットプロレス人気を復活させようといろいろ仕掛け、記事であおりましたが、なかなか反響がでませんでしたねえ。)

  

日本女子プロレス倒産、ミゼットプロレスほぼ消滅

1997年、小人レスラー、リトル・フランキー、角掛留造が所属する、全日本女子プロレスが10億円以上の負債をかかえ倒産した。バブル期における不動産投資の失敗が主な原因である。興行は縮小され、月に十日から十五日のリングが行われるにすぎない。当然彼ら(小人レスラー)の収入は激減した。現在は、時折入ってくるリング以外の着ぐるみの世界が、わずかに収入を支えている。テレビの中で着ぐるみを見たら、彼らがその中に入っていると考えて、ほぼ間違いがない。
高部雨市「小人プロレスの憂愁」別冊現代思想「プロレス」2002年2月臨時増刊P130

日本女子プロレスは1980年代後半に秩父に土地を買って、合宿所兼リゾート施設を作り、引退したミゼットレスラーの就職先にしようとしていました。全女の倒産により、計画は潰えました。
(全女倒産後も関東地方周辺の巡業を行っていましたが、給与不払いなどの理由で選手とスタッフが退職して新団体を設立。記憶ではミゼットレスラーはどこの団体も招聘しなかったはず。全女は一年たたずに活動を停止します。)

日本女子プロレスが経営していた秩父リングスターフィールドの証言。一時期は引退したミゼットレスラーが管理人として居住していたようです。

ladysring.jp

 

選手は引退。ときどき試合が組まれますが、ほぼ消滅しました。

 

 

日本女子プロレス倒産後のミゼットレスラーたち

リトル・フランキー選手

realhotsports.com

角掛留造選手

realhotsports.com
(角掛留造選手は、今井リングアナウンサーにネタにされたり、試合中レフェリーにハリセンでたたかれたりとダメレスラー扱いされてましたが、ロープを握って自分の身長を超えるくらいのトップロープを飛び越える運動能力に俺はびっくりしました。)

 

 プリティ太田選手

www.youtube.com

 

ningenfusha.jugem.jp

 

 

まとめ

(1)全日本女子プロレスは設立から倒産するまで、ミゼットプロレスの試合を行ってきた。試合が組まれていないときでも、ミゼットレスラーは仕事をしていた。
(2)ミゼットプロレスの興行に「人権団体」を含め抗議はなかった。
(3)テレビ局は女子プロレス放映枠でのミゼットプロレスの放送を自主規制してきた。 (深夜番組で放送されたり、セルビデオが販売されたりはした。)
(4)人気番組にミゼットレスラーが出演したら、一般視聴者から抗議があって、出演が取りやめになった。
(5)医療の進歩その他の理由で、ミゼットレスラーのなり手がいなくなったので、ミゼットプロレスの試合を組めなくなった。

 

その他のまとめ

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