「小人プロレス(ミゼットプロレス)は人権団体がつぶした」は定期的にネットにでてきます。たとえば、画像のツイートが3600RTになるくらい。

日本のミゼットプロレスの歴史はwikiにまとまっていますが、ほかの資料や個人的な記憶を使って補足します。
日本のミゼットプロレスの始まりは1960年代初頭
ミゼットプロレスは、男子プロレス、女子プロレスとは異なるルートで日本に入ってきて、興行に加わりました。
「記録」面ではほとんど表に出てこない「幻の十年」。だが、61年、62年、63年と三年連続で来日したアメリカのミゼットレスラーたちの前座を女子プロレスラーが務めたという話がある。興行を打ったのは三重県松坂在住のプロモーター玉井芳雄氏。
松永(全日本女子プロレス社長) ええ、アメリカのミゼットとやったことはあります。(略)で、日本プロレスに話をもっていったんだけど、力(道山)さんとエンコウ(遠藤幸吉)はうまくいってなかったから力さんあまりいい顔しなくてね。でこっちに話がきたわけ。
小畑(千代:女子プロレスラー) 最初松永さんのところ話がいったんだけど、あとからはウチ(東洋女子プロレス)。もちろん玉井さんのとこ。メインを張ったのは私たちでミゼットが前座よ。
小泉悦次「女子プロレス 幻の十年」別冊現代思想「プロレス」2002年2月臨時増刊P259-260
経緯は不明ですが、これらの興行のあと日本にミゼットレスラーが誕生しました。
1967年4月23日、いくつかの小団体を糾合し、新たに「日本女子プロレス」が結成された。会長は万年東一。女子選手は巴ユキ子ら10人、ミゼット選手ダイナマイト・キングら4人。29日対等体育館で発足後初の試合をする。(略)このシリーズが終わると「日本女子プロレス」は分裂した。松永兄弟、ほとんどの女子レスラー、ミゼットレスラー全員が離脱し「全日本女子プロレス」を旗揚げした。
松永 選手たちが中村守恵(ブッキング担当)と合わないわけ。で、出て全女を作ったんです。それからですよ。ストリップ劇場での興行を止めたのは。
「日本女子プロレス」は68年11月11日より、木曜日午後7時30分から30分間、東京12チャンネル(現テレビ東京)のレギュラー枠を得た。(略)幸いにも中継のほうは、初回から20パーセントを超える視聴率を記録した。
小泉悦次「女子プロレス 幻の十年」別冊現代思想「プロレス」2002年2月臨時増刊P261-262
テレビ中継はあったが次第に露出は減少
興行を開始した全日本女子プロレスにはテレビ局がついて不定期に放送されました。マッハ文朱、ビューティ・ペアなどの人気選手が出ると、定期放送になることもありました。
1970年代のミゼットプロレス人気の証言。マッハ文朱やビューティペア売り出しの裏話が面白いです。

当初はミゼットプロレスも放送されていたようですが、次第になくなります。興行も試合が減っていきます。
当初、女子プロレスの観客は大人の男性でした。
1970年代半ばにビューティ・ペアの人気が出ると、若者が来るようになります。1984年以降クラッシュ・ギャルズの人気が出ると、10代の女性が来るようになります。彼らはミゼットプロレスを受け入れませんでした。女子選手がウケるようになり、興行が安定するようになると、ミゼットレスラーの出番がへりました。
1980年代頭にドリフターズ「8時だヨ!全員集合」にミゼットレスラー「ミスター・ポーン」が出演します。
『8時だヨ!全員集合』出演は、小人プロレスの存亡を賭けたチャレンジだった。「市民権」獲得の闘争でもあった。
会場入りしたミスター・ポーンは、「何歩で駆け抜けるか」を計算し、リハーサルを繰り返した。ケガをしないぎりぎりの速度を探った。
客席は爆発し、茶の間の小学生は驚喜したが、テレビ局には抗議の投書が殺到した。
別の証言。
僕がドキュメントを撮った9年前から、もっともっと前からそうだった。当時、ドリフターズの全員集合!という番組にレギュラーで出演しないかという申し出があった。坂本さんや大五朗さんも現役の頃だ。でも試合は既にテレビからはオミットされていたし、小人たちはこのチャンスに顔を売るんだと張りきってコントの練習にいそしんだ。
1クールの約束は数週で反故にされた。「申し訳ないけど視聴者からの抗議が凄いんだ」とプロデューサーは呆然とする彼らに説明した。どうしてあんな可哀想な人たちをテレビで晒しものにするんだという抗議が殺到したという。
ミスター・ポーンの登場はなくなりました。
※ ミゼットレスラーの試合やテレビ番組の出演に抗議したのは個人です。試合を減らしたのは興行団体、テレビの露出を止めたのはテレビ局です。この一連の動きで「人権団体」は登場していません。
個人の「抗議」内容も、「ミゼットレスラーをテレビに映すな」でした。「ミゼットプロレスは差別的」という抗議ではありません。
ミゼットレスラーは、低身長症をスカウトして選手になった
女子プロレスでは入門希望者を採用したりオーディションで選抜したりしてきましたが、ミゼットレスラーはプロレス団体の関係者が個別にスカウトしていました。昭和30年代ころ、低身長症は家業を継ぐか職人になるかくらいしか職業の選択肢がありませんでした。プロレスラーになる話が魅力的に思える人たちがいました。一時期全日本女子プロレスは10名前後の選手を抱えていました。
1990年代になると、選手は3人にまで減ります。身体障がいなどがでて引退する選手が出る一方で、新たな選手がはいらなくなったためです。1990年代になると全日本女子プロレスはミゼットレスラーのスカウト活動を止めます。
松永 ミゼットもね。医学的に克服できちゃったのよ。三歳までに牛の脳下垂体を植えつければ直るんですよ。ウチにいる三人(当時の現役ミゼットレスラーだったリトル・フランキー、角掛留造、ブッダマン)については一生面倒は見るつもりですけどね。ブッダマンね。時々試合には出るけど営業の仕事もさせてます。コースを組む打ち合わせですけど。
小泉悦次「女子プロレス 幻の十年」別冊現代思想「プロレス」2002年2月臨時増刊P264
ミゼットレスラーが減ったのは医療体制と観客のニーズの変化により興行団体が選手集めを止めたためです。「人権団体」からの抗議に応じたためではありません。
(ブログ主は1990年代の週刊プロレスを継続してほぼ全冊読んできましたが、全女関係者のインタビューや記事で「抗議」を受けたという話は読んだことがありません。)
全日本女子プロレスでミゼットプロレスの試合がなくなったことはない
ビッグマッチなどでは試合が飛ばされることはありましたが、通常の興行では試合は組まれていました。個人的な思い出では、1995年ゴールデンウィークに品川の野外会場で観戦しました。
映像で残っている例。
メキシコより最強のミゼット軍団飛来!迎え撃つリトル・フランキー率いる日本勢!
平成7(西暦1995)年6月6日 市原臨海体育館 FMW公認 限定有刺鉄線催涙ガス噴霧 爆裂6人タッグデスマッチ(時間無制限一本勝負)
真の王者は二人はいらない!リトル・フランキー世界統一への大一番!
平成7(西暦1995)年6月5日 後楽園ホール プロレスリング世界ミゼット級選手権(時間無制限一本勝負)
WWWA世界王者 リトル・フランキー(日本代表) vs. CMLL世界王者 エナニート・フィリ・エストレージャ(メキシコ代表)
他の登場選手・元選手 角掛留造/ミスター・ブッタマン/ゲレリート・マヤ/ゲレリート・デル・フトゥーロ/元ダイナマイト・キング/元ミスター・ポン
1990年ころ、FMWでもメキシコのミゼットレスラーを呼んで、ミックスドマッチを組んでいました。
これは2002年に書かれたと思われる文章から。おそらくその10年前の思い出。
現役は今も二人いる。リトル・フランキーと角掛留蔵。年齢は僕とほぼ同じだ。でも試合はほとんど組まれていない。地方の会場の場合は根強いファンがいて時おりはリングに上がる。でもテレビの中継があるときには、二人の試合のときにだけ撮影用の照明が落とされる。
全女の関係者による1990年代のミゼットプロレスの思い出。
マッハさんの時代からクラッシュの時代まで激戦の続く興行の中のスパイスとして、また全女が低迷期だったときの原動力として、どの選手もミゼットの人たちには頭が上がらないという意識はあったそうです。
だが当時はやっぱり規制に厳しい時代があってテレビ放送はされず、大会においても出番は地方大会に限られ、後楽園ホールより上の大会には出番がないことが長らくありました。
1992年9月30日の深夜枠で「ミゼットプロレス伝説」という今回の太田さんのようにミゼットを取り上げた特番がフジテレビで一時間半の時間で放送されました。
深夜にも関わらずけっこうな視聴率があったそうで、この反響からミゼットプロレスが全女のどの大会でも使われるようになり、横浜アリーナや武道館、両国、東京ドームでも試合が組まれたことがあります。
この全女での活躍からミゼットプロレスが一般的なプロレスファンに認知され、市民権を得たと言ってもいいでしょう。
全日本女子プロレス倒産、ミゼットプロレスほぼ消滅
1997年、小人レスラー、リトル・フランキー、角掛留造が所属する、全日本女子プロレスが10億円以上の負債をかかえ倒産した。バブル期における不動産投資の失敗が主な原因である。興行は縮小され、月に十日から十五日のリングが行われるにすぎない。当然彼ら(小人レスラー)の収入は激減した。現在は、時折入ってくるリング以外の着ぐるみの世界が、わずかに収入を支えている。テレビの中で着ぐるみを見たら、彼らがその中に入っていると考えて、ほぼ間違いがない。
高部雨市「小人プロレスの憂愁」別冊現代思想「プロレス」2002年2月臨時増刊P130
全日本女子プロレスは1980年代後半に秩父に土地を買って、合宿所兼リゾート施設を作り、引退したミゼットレスラーの就職先にしようとしていました。全女の倒産により、計画は潰えました。
全日本女子プロレスが経営していた秩父リングスターフィールドの証言。一時期は引退したミゼットレスラーが管理人として居住していたようです。
全女関係者によるミゼットレスラー支援の様子。1980年代後半と思います。
笹崎 そうですね。関東近郊の興行のときは、その日のうちに目黒に戻るんですけど。ビルの屋上にはミゼットプロレスの人たちが住んでる部屋があったんですよ。スーパーハウスみたいなプレハブがあって、そこにはガスや電気も繋がっていて生活ができるんです。その頃はリトル・フランキーさんや角掛留造さんの2人が住んでいて。自分らが巡業から帰ってきたら近くのスーパーで何か買って、レフェリーの村山(大値)さんやミゼットたちと晩酌してまして。
選手は引退。ときどき試合が組まれますが、ほぼ消滅しました。
全日本女子プロレス倒産後のミゼットレスラーたち
リトル・フランキー選手
角掛留造選手
realhotsports.com
(角掛留造選手は、今井リングアナウンサーにネタにされたり、試合中レフェリーにハリセンでたたかれたりとダメレスラー扱いされてましたが、ロープを握って自分の身長を超えるくらいのトップロープを飛び越える運動能力に俺はびっくりしました。)
プリティ太田選手